愛と我について(比較という我)3
愛は相手を主体として望むことを与えて生きることを表しますが、我(エゴイズム)はそれとは対立した立場で、自分を中心としたものです。我を出すと、まず人の心は自分の考えを優先し始め、我を前面に押し出しその後の経緯として、比較に移ります。そして前回のコラムに一度述べたように不信へと引導されます。じつはこの不信の前に心が動き、比較に入ります。比較も我を中心として自動的、二次的に出てくる思いであり、エゴイズムの延長線上に出てくるものなのです。ですから比較がでると人を当然に比べようとし善悪の比較をしようとします。能力で価値を決める人もいれば自分の合う人、合わない人など何かの価値観で比較して何かの差を当てはめようとします。自分の考えと比較して相手を無視して自分の意見を優先し自我を出します。この生き方は愛に反します。愛はどうかというと、比較しないのです。全て平等に見て平等に対します。相手の能力があろうがなかろうが、善の部分や欠点があろうがなかろうが、そのままを全部を認めながら受け入れるものです。自分の相手に要求する何ものもなくて受け入れようとします。これを子供の教育で応用すると、愛の教育とは、子供の持つ能力があるから可愛がるとか、運動会でいつもびりを走る運動神経がない子だから、「もっと早く走りなさい! そういう子供になってくれたら!」などと要求しないで、あるがままのその子の能力を全部わかっていて、「それでも可愛い。愛らしい。」という要求のない愛なのです。教育を優先する親達で子供の自由性を無視して自分の価値観、あるいはこういう子供に育てようなどと考えてそれを押し付け要求して塾に通わせたり何かをさせようとする親がいますが、愛の法則から判断すると、それは明らかに間違ったものです。夫婦間や男女間、その他の人間関係においても同様であり、互いに要求しあうとうまく行かずギクシャクした間柄になります。要求がないのが宇宙の愛の法則なのです。相手への押し付けた生き方は自粛しましょう。恋愛もそうです。そして更にこの比較の次にやがて、嫉妬や、ねたみ、が生じるのです。それはまた次回のコラムにて。
サンクチュアリ鑑定士 承世