第二章 心の病気の原因は
我とは
誰もが自分が一番であり、我を強く持っています。「自分こそが一番偉い」と言う思いです。反論する人がここでいると思います。ですが素直に瞑想でもされて見て下さい。
「この世で一番好きな人は自分」と答えが出てくるはずです。認めたくないことですが、私たちは正直にこれを認めないといけません。どんな他人も自分以上にはなりません。政治家が自分の命を賭けて国に奉公しますと演説されてもそれはあきらかに嘘が隠れています。
世の中は実際この嘘で固まった世界なのです。(これを堕落というのです)
心は自分が偉いと思う
あなたは自分自身を騙して生きていませんか?
素直な心で自分の心を見ると、「世の中で一番好きで偉いと思うのが自分」となりませんか。
実際我々堕落した人間は、「私は偉い」とはっきり認めているのです。その理屈が何かというと、心は「必ず思うことを己の体は手に入れてくれる」と知っているからなのです。麻薬でさえも心が望めが体はそれを求めるために行動して得させてくれます。ですから心はとても我がままで高慢なため、自分が何時も主体で偉いと思い続けられるのです。
人がプライドを傷つけられたら大変
ショックを他人に与えたかったら、人が「偉いと思う」そのプライドをけなす事です。それを認めないようにするか(無視するか)、攻撃して傷つけることです。
敵を作るのもこの事が原因となったことが必ずあるはずです。
友人で急にお付き合いが悪くなった。といえばこの事が原因になったかもしれません。
「なぜむくれたように最近、友人は接するのだろう?」「さっぱり分からない」
とういう時には、この友人のプライドを傷つけたことが過去にないかを捜して見て下さい。
人が人生を生きるうえで、相手のプライドを傷つけることを最大に注意を払わなければなりません。この事さえなければ喧嘩もすぐに仲直りすることは簡単に出来るでしょう。
精神病は自己保身からくる
「私は偉い」という心を守る為なら、人は病気にさえなろうとします。
競争社会でライバルがたくさんいて、明らかに自分には勝ち目がないと分かると、そんなときに人は病気をつくる事があります。
勤めの例で、外回りで交渉のときに、自信があまりになく、必ず自分のプライドが交渉がうまく出来ないし傷付くと分かっているとなると、その日に会社に出勤せずに引きこもってしまう人がいます。休みの理由に「頭がいたのです」とか、「熱が出ました」などと言ってそのための理由付けをするのです。
そうなれば会社側も病気だから、熱があるから仕事は無理だと当然なります。
・・・・いろいろのケースがありますが、原因は皆同様です。
「私こそ偉い」という自分を守ろうとする為に病気にするのです。実際これがその後続くと、本物の精神的病人となります。それが精神病やうつ病人です。
このらの動機はかならず、自分の「我が一番偉い」というプライドを壊されないために守ろうとする心の思いが原因となっています。逃避となって守ろうとしているのです。
素直に「会社に出て交渉の仕事でプライドを傷つけたくない」とは言えないのです。かならず理屈や理由をつけて逃避しようとするのです。
このように精神的な病気の人は必ず、現実逃避でプライドをただ守ろうとごまかして生きようとするのです。
自我(とくに過剰な人)が問題と不幸の原因をつくる
人はなぜ病気になってまでも自分を守り偉いと思うように行動するのでしょうか。その理由にひとつ、「自我意識」が挙げられます。
これは「自分」「私」という意識のことを指しています。よくアイデンティティーと言われます
参考:アイデンティティー【identity】
1自己が環境や時間の変化にかかわらず、連続する同一のものであること。主体性。自己同一性。「―の喪失」
2本人にまちがいないこと。また、身分証明。
自我意識は必要不可欠なものですが、問題はこれが強くなって過剰になると、エゴイズムになるということです。そうなると問題を作るようになって行きます。
私はこういう方面の仕事に向く能力があり、こういうことをしてみたい・・そのためにこういう学校に行って、こういう勉強がしたい。・・・・・・・など
ここまでは自我意識として問題はありませんが、問題になるのは実際にそれに向く能力がなく、夢のように考えて、このようにしたいと執着する時に起こります。この時になるとエゴイズムとなります。ならないことを得ようと執着する心の思いの行為です。
この自我意識はなくてはならないものでありながら、過ぎると危ない面が出てきます。
知能指数が低いのに「東大を受験したい」と思ったとしましょう。そのことを思う事はべつだん問題はありませんが、これに自我意識の強さが加わる「エゴイズム」となった場合には、「受かろう」が「受かったやるぞ」との過剰の自我意識となって、問題が生じるようになるのです。
なぜなら合格数には制限があり、一度に受験者を合格にする事はできないからです。当然試験で点数が少ない人から脱落します。そうなると、「自分は勉強してきたから必ず受かる」と、思っていて不合格になった人は必ず、挫折感を味わう事となります。結果的に悩む事となります。もっと自我が深いと怒りに変ります。
ですから世の中は何でも自己の欲望が得られると言う事にはならないのです。
目的を達するかどうかは、本人の努力や思いだけで得られるものではないのです。自分以外に学力ある人が入学数を上まれば、当然不合格となるのは、自分です。
自分以外の原因は、どうしようもありません。ですから我々は柔軟に事に対応する必要性があるのです。
そこで、自我意識をもつのは自然ですが、その意識が過剰なものとなりそれがエゴイズムと変った場合には、やがて、心が折れるようなことに遭遇することになるでしょう。
ですから柔軟な心を持った自我意識を持つように心がけしましょう。
目的や希望に執着せず囚われない事
人は必ず目的に対して得ようという気持ちを持ちます。やるからには成功して望みをかなえようとし、逆の失敗を恐れます。
ですが、ここで「必ず目的をかなえるんだ!」と過剰に求めようという心を持つと、大変な問題を引き起こすことになります。
通わせた塾で目標の大学に合格しなかったら、たいへんです。「この塾が悪い、担当の先生が悪い」となり、回りのせいにさせられて先生が責められるようになります。ですから塾の先生も、必勝合格の無理難題を背負って、楽に教えられなくなるのは当然の結果です。
塾の同僚達にも競争心やライバルとして互いに憎み会う気持ちしか持てなくなるのです。
全員合格と言うことは自然に考えたらありえないことです。自然季節があり暑い夏もあれば寒い冬も来ます。それを熱いのを否定して涼しくなれと言ったからとしても、自然が涼しくしてくれますか。それはありえないことです。自然は変える事ができません。
それと同じ事が不合格を合格にしろといういう事と同じと言えるのです。
暑い時にはそれを肯定して(認め受け入れる)、対処方法として薄着をして自然に合わせるのです。もちろんこのことは不合のときにどう対処するかに通じます。普通なら第二志望校も受験しておくとかとなります。それを自我主張でここに何が何でも合格するんだ!・・・・となると不合格した時に問題になるのです。
冬でも同じです。厚着をして対処すればよいのです。ですから努力を怠らずやり残しのないようにして、あとは天命をまつ心境で結果待ちです。そしてその結果には自然体で臨み、その結果を肯定で受け入れて次に行動するのです。決して執着せずに過剰な自己欲望を曲げない自我はつつしまなければなりません。
このようにあまりに不自然で非合法的に否定するような目的を作ってしまうと精神的打撃を受ける罠が待ち受ける人生となります。本来は悔いが残らないように勉学も頑張ってみればよいのです。
人間にとって、希望や目的を持つことまでは問題ありませんが、過剰意識にまで発展させて、執着的希望、目的とした場合は問題となるということが結論です。それで、決めつけた意識でなく、常に意識も過剰と執着までにならないようにして行く正しい心の持ち方が大切です。
自分の基準を押し当るエゴイズム
人が問題を作る理由にもう一つ、「これが正しく、これは間違いだ!!」・・・
「正しいやり方はこれだ!!」と言った、自分の基準を押し当てた立場から、
何かと言えば「自己の基準」を押し付けたり決め付けたりする事です。
自分自身で決めた規則や生き方があれば、足も手も縛っておいて、それが出来ないと悩むのが人間です。
会社経営などで、経営責任者が思いつきで「今年はこういう目標を達成しよう」と言って、数字や利益目標を決めてしまうと、年の終わりになってなぜ達成できないのだ!」となります。
もちろん基準をつくるのは問題ありませんが、その基準をつかみ過ぎると欲心や執着となり、心が曇ることになり落ち込みます。
この場合の基準の決め方として正しいのは、達成した場合はその要因を分析して、来年につなげます。もし達成できなかった場合でも、未達成となった要因を調べて研究し、来年の改良点として取り組んで行けば良いのです。結果のみに囚われてはいけないということです。基準をつくっても囚われることなく「これぐらいの目的ならできるかも?」くらいの思いで構えてやることです。
何でもかんでも基準をつくる心は問題をつくりかねません。たいていはそれが守れず、成功がないときに悩むこととなるのです。
人間は頭の思いでは自分に基準をつくり厳しいのですが、実際に行動する時にはいいかげんに生きます。その押し付け決めつけた基準に合わないときに悩みを持つのです。ですから目的と基準はあっても、それに縛られず、囚われない生き方が必要となります。
基準を押し付ける母親
ある母親が、自分の子供を一流大学に進ませようと勝手に目標を決めたとしましょう。すると、その母親は子供を勉強できる子にしようと励みます。ですがお子さんにとってのその母親は自分を追い込む鬼ばばあとなることでしょう。
あまりに現実離れした目標を立てる事はあってはなりません。その代わりに勉強をする喜びを味わう心を持たせることです。押し付けのない自由な心で、のびのびと育てることが大切です。要求のない心ともいえます。
羽生選手が中国のスケートグランプリで実力が出せずに2位で終わったのがありますが、おそらく自分自身が基準追求に心が囚われて実力が発揮できなかったと思われます。実力は十分あるので惜しまれる結果でしたが、優勝の思いに執着すれば体が縛られて思う演技が出来なかったのではないでしょうか。
意識過剰からの目的はストレスや緊張のきっかけになりますが、その立場での仕事や勉強、競技などはまともに出来ないものとなるでしょう。
見栄を捨てる
次に「見栄」も問題を引き起こす原因となる心です。これはどういう心かと言うと、「実力とはかけ離れた目的を達成できると言う妄想」であり、自分を「実力以上に見せようとする心」です。
自信過剰も失敗のもととなる
人が「自信がなくなった」と言いますが、この原因が「自信の持ちすぎ」なのです。意外にとあなたも思うことでしょう。
「自分はこれ位できる筈だ」「これくらいできて当たり前」・・・・・・・・
と思って取り組んだが、結果は何ひとつ出来なかったとなると、心は、理想の自分と結果の自分のギャップに打ちのめされてショックを受けるのです。
要は実現できるかどうか分からなくても努力を悔い残らないようしてできることをしていけば良いのです。
仏教の立場から見ると自信過剰も一種の心の病気です。自信過剰で仕事する人を見ると、この世の人は心の病人とはとうてい思えずに、やり手で活発な人と思われがちですが、このよう人にとっての危険はやれるはずができなかったときの自信喪失の落ち込みです。
サンクチュアリ鑑定士 承世